信仰のことば

キリスト教(プロテスタント・主に改革派教会)の説教集・神学書を少しづつ読んでいきます。

【Part.1】C・H・スポルジョン 説教『二つの挑戦』(C.H. Spurgeon “A Double Challenge”)

 
 
 
I will say to the north, “Give them up!” And to the south, “Do not hold them back.” (Isaiah 43:6)

「北に向かっては「引き渡せ」と、 南に向かっては「引き止めるな」と私は言おう」
イザヤ書43:6)

 

 

These words, no doubt, primarily refer to the gathering together of the Jews in the latter days.

この言葉は、間違いなく、主に後の世のユダヤ人の集まりを指しています。

 

 

It does not matter much whether they have wandered to the north or whether they have pitched their habitation in the south.

彼らが北に迷い込んでいようと、南に住まいを構えていようと、あまり関係ありません。

 

 

By the wonderful power of God, they will both be converted to Christ and will be gathered into their own land.

神のすばらしい力によって、彼らはキリストに立ち帰り、自分たちの国に集められるのです。

 

 

God will only have to speak the word, and that miracle of miracles will be done.

神がただ言葉を語るだけで、その奇跡中の奇跡が行われるのです。

 

 

The unbelief of Judah and of Israel will be taken away.

ユダとイスラエルの不信仰は取り除かれます。

 

 

They will look on Him whom they have pierced, and they will mourn because of Him (Zechariah 12:10).

彼らは自分たちが刺した方を見て、そのために嘆き悲しむのです。(ゼカリヤ12:10)。

 

 

The words can also be applied to those glorious gatherings of the latter times when the church will make up her full number – when the elect, although they might be scattered here and there, will hear the call of active grace and will return unto the Lord who has bought them with His precious blood.

この言葉は、教会がその全数を占めるようになる後の時代の輝かしい集まり、つまり、選民がその離散にもかかわらず、積極的な恵みの呼びかけに耳を傾け、尊い血で彼らを贖ってくださった主のもとに戻ってくる時にも、当てはめることが出来ます。

 

 

May the Lord hurry those happy times when His word will run, have free course, and be glorified!

主の言葉が実行され、自由に行動し、栄光を受けるような幸せな時代を、主が速やかに実現してくださいますように。

 

 

But my intention is to apply the text rather than expound it.

しかし私の意図は、テキストを説明することではなく、現実の生活に適用することです。

 

 

To you, dear friends, especially to you who are not saved, I have thought that one or both of the calls to the north and to the south might prove to be messages from God:

I will say to the north, “Give them up!” And to the south, “Do not hold them back.”

親愛なるあなた方、特に救われていないあなた方に対して、私は北と南への呼びかけの一方または両方が神からのメッセージであることを証明するのが良いことだと考えたのです。
「私は北に向かって "引き渡せ!"と言い、南に向かって "引き止めるな!"と言おう」

 

 

These are two appeals from heaven to which you would do well to take heed.

この2つの天からの訴えに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

 

 

May the Eternal Spirit make them powerful so that you will be obedient to their mighty commands.

永遠の霊が神の御言葉の力を強め、あなたがその力強い命令に従うようにして下さいますように。

 

 

These are two short, concise addresses, two simple items of serious advice.

これらは、2つの短く簡潔な演説であり、真剣なアドバイスの2つの単純な項目です。

 

 

Oh, that you might listen and follow them to your soul’s eternal benefit!

ああ、あなたの魂の永遠の利益のために、これらに耳を傾け、従うことができますように。

 

 

The first word of command is, Give them up! Give what up?

最初の命令の言葉は、「それを引き渡せ(手放せ)」です。
何を手放すのでしょう?

 


With some of you, it is imperative that you give up your preconceived ideas.

あなた方の中には、先入観を手放すことが必要な人もいます。

 

 

You have so misunderstood true Christianity that you have been used to denounce it as hypocrisy and to say that those who profess to follow Jesus are hypocrites.

あなた方は、真のキリスト教をあまりにも誤解していて、偽善だと糾弾したり、イエスに従うと公言している人は偽善者だと非難するために、あなた方は利用されてきたのです。

 

 

Give up this blind bias and give the gospel a fair hearing.

この盲目的な偏見を捨てて、福音を公平に聞いてください。

 

 

If it turns out to be false, you will at least be better able to expose its fictions after having studied its facts.

もしそれが嘘であったとしても、少なくとも事実を調べた後であれば、その虚構を暴くことができるでしょう。

 

 

But if it happens to be genuine and true, how terrible it will be for you if you continue to despise it!

しかし、もし福音が本物であり、真実であったとして、それを軽蔑し続けるならば、あなたにとってどれほど恐ろしいことでしょうか。

 

 

The doctrine of Christ claims to be divine.

キリストの教えは、神の存在と働きを主張しています。 

 

 

It declares itself to be the only true faith, and it argues that all other systems are false.

自分が唯一の真の信仰であると宣言し、他のすべての体系は偽物であると主張しているのです。 

 

 

It tells us that God so loved the world, that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him will not perish, but have eternal life (John 3:16).

キリストの教えは、「神は実に世を愛されたので、そのひとり子をお与えになり、この方を信じる者が滅びることなく、永遠の命を持つようにされた」(ヨハネ福音書3章16節)と説いています。 

 

 

This is a startling announcement.

これは驚くべき発表です。

 

 

History or poetry has no parallel for such a wonder that the holy God was willing to die for sinful men, that He who was offended would Himself take the guilt of those who offended Him upon Himself and suffer for their transgressions.

聖なる神が罪深い人間のために喜んで死なれたこと、怒れる神が自分を怒らせた者の罪を背負い、その罪のために苦しまれること、このような驚きは歴史にも詩にもありません。

 

 

What an extraordinary miracle of grace that the Lord of life and glory would become a substitute for His enemies!

命と栄光の主が、ご自身に敵対する者の身代わりになるとは、なんとありえない様な恵みの奇跡でしょうか。

 

 

Do not mock at the mention of such mercy.

There must be something in it.

このような慈悲深い話を聞いたのに、あざ笑ってはいけません。
そこには何かがあるはずです。

 


Tens of thousands live happily upon the news.

Millions have died triumphantly on the belief of its authenticity.

何万人もの人々がこのニュースを聞いて幸せに暮らしています。
何百万人もの人々が、その信憑性を信じて勝利のうちに死んでいます。

 

 

The trust placed in it has been tried and tested in the prison, during torture, and at the stake – and believers in it have triumphed over every form of diabolical torture.

牢屋の中、拷問の中、火あぶりの中で、その信頼は試され、試されてきましたが、信じる者は、あらゆる悪魔の拷問に勝利してきました。

 

 

They have held their confidence steadfast to the end and have finished their course bravely and gloriously, grasping the standard of the cross of Christ.

彼らは最後までその信頼を堅持し、キリストの十字架の基準を把握して、勇敢に、そして栄光に満ちたコースを走り切ったのです。

 

 

Do not seal your ears or shut your hearts against the testimony.

証言に耳を塞いだり、心を閉じたりしてはいけません。

 

 

Let it have a fair hearing.

Give up your preconceived ideas.

Hear, and your souls will live.

公正な心で聴き取りましょう。
先入観を手放しなさい。
そうすれば、あなた方の魂は生きるでしょう。

 


In the same way, give up your self-righteousness.

同じように、独善的な考えも手放しなさい。

 

 

My pleading might be in vain, for unless God says it, no one will do it.

と言っても、私の嘆願は無駄かもしれません。

神ご自身が言わなければ、誰も聞いてくれないのですから。

 

 

The worst of people flatter themselves with some conceit of their own righteousness.

Their companions back them up and praise them as good people.

最悪の人は、自分の正しさをうぬぼれています。
仲間がそれを支持し、良い人だと褒めてくれるのです。

 

 

No matter how sinful and corrupt their lives are, they credit themselves with some actions that make a good show before people of their own type, which they foolishly hope will be accepted by God at the last day.

自分の人生が如何に罪深く堕落したものであっても、自分を信用し、自分と同じタイプの人々の前では見栄えのする行動をして最後の日に神に受け入れられることを愚かにも望んでいるのです。

 

  

 

 

 

 

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祈り 申命記第10章によって

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、

わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。

主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。

心の包皮を切り捨てよ。二度と頑なになってはならない。

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、

孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。

あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。

あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。

この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。

あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。」
‭‭(申命記‬ ‭10:12-22‬ )


 

私たちの神である主よ、あなたは、
神々の中の神、主なる者の中の主、
偉大にして勇ましく畏るべき神、
人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して
食物と衣服を与えられるお方です。

 

どうか私たちが心を頑なにして、
あなたから離れることが無いように
お守りください。


あなたの掟を守り、あなたの御心に適う
道を歩めるようにお導きください。


殊に、あなたが私たちになさる様に、
隣人を偏り見ず、必要な助けを
与えられるように、力付けてください。

 

アーメン

【Part.4】ベンジャミン・ウォーフィールド 説教『この世と来るべき世について』(Benjamin Warfield “This-and Other-Worldliness”)

 

 

 

 

 

 

But it is time for us to take note of another and the most characteristic element in this appeal.

しかし、私たちは、この訴えのもう一つの、そして最も特徴的な要素に注目する時が来ました。

 

 

When we observe it narrowly we will see that it is not an appeal to seek the kingdom of God and His righteousness on the ground that this is the best way to obtain the other goods.

この言葉を注意深く観察すると、「他の財を得るための最良の方法だから」という理由で、神の国と神の義を求めることを訴えているのではないことがわかります。

 

 

It does not say:

“Seek ye first the kingdom of God and His righteousness” “because”

–but simply “and”

–“and all these things shall be added unto you.”

神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。“なぜなら”」とは書かれていません。
“そして”です。
「そして、これらのものはすべてあなたがたに加えられるであろう」

 


It is a fact that godliness has also the promise of this life, but that is not the reason why godliness should be sought.

神の国と義に現世の約束が含まれているのは事実ですが、それは神の国と義を求めるべき理由ではありません。

 

 

It is a better reason that it has the promise of the life to come.

It is a better reason still that it is godliness.

それよりも、来るべき人生の約束があることの方が理由になります。
それが神の国と義であるというのですから、尚更素晴らしい理由です。 

 

 

Nor does our passage itself fail to bring this out.

It does not say “and all these things shall be your reward.”

この文章自体が、そのことを明らかにしている訳ではありません。
また、「これらすべてのことがあなたの報酬となる」とは言っていません。

 


It does not propose to pay us for seeking God’s Kingdom and righteousness by giving us earthly things.

私たちが神の国と義を求めることに対して、報酬として地上の物を与えることを提案しているのではありません。

 

 

It says: “and all these things shall be added unto you.”

「そして、これらすべてのものがあなたがたに加えられる」と書いてあります。

 

 

The Greek word is not the word for pay, reward, but for the small gratuitous addition to the promised wages, given as we should say “in the bargain.”

このギリシャ語は、支払いや報酬を意味する言葉ではなく、約束された賃金に無償で加えられる小さなものを意味する言葉であり、「おまけ•特典」と言うべきものです。

 

 

The worldly goods that come to us are in a word here represented not as our reward, but as something “in the bargain.”

私たちにもたらされるこの世の品物は、ここでは一言で言えば、報酬ではなく、「おまけ」として表されています。

 

 

The appeal of the passage is made to rest elsewhere;

that is, in the contrast between goods earthly and goods heavenly.

この節の魅力は、一般に考えられる部分とは別の場所 − すなわち地上の財と天上の財の対比においてあるのです。

 

 

We are to seek the heavenly, not for the sake of the earthly, but for their own sake.

私たちは地上のもののためではなく、天のものをそれ自身のために求めなければなりません。

 

 

For, as Paul says, after all the Kingdom of God is not meat and drink but righteousness.

パウロが言っているように(ローマ14:17)、結局、神の国は肉や酒ではなく、義なのです。

 

 

And our passage sets, as Bengel points out, this celestial food and drink over against the earthly.

そして、この箇所では、ベンゲルが指摘しているように、この天の食べ物や飲み物を、地上のものと対置しています。

 

 

Herein resides the “lift” of the passage.

ここに、この箇所の「山場」があります。

 

 

It places the highest good before us–God and His righteousness–fellowship with God; and pries at our hearts with this great lever of,

Who will seek earthly food and drink when they can seek the kingdom of God and His righteousness?

私たちの前に最高の善、すなわち神とその義、すなわち神との交わりを置いています。
そして、「神の国とその義を求めることができるのに、だれが地上の食べ物や飲み物を求めるだろうか」という、この力強い梃子で私たちの頑なな心を突き動かすのです。

 


In the restitution of the harmony between man and God thus involved, every blessing is included.

このようにして人間と神との間の調和を回復することには、あらゆる祝福が含まれます。

 

 

Here is something worth losing all earthly joys for.

ここには、地上のすべての喜びを失うに値するものがあります。

 

 

Here is something worth the labour of men, the very end of whose being is to glorify God and enjoy Him for ever.

ここには、神を讃え、永遠に楽しむことを存在の目的とする人間の労苦に値するものがあります。

 

 

Would we not purchase it with loss of all earthly–if we can speak of loss in the exchange of the less for the greater?

私たちは、この世の全てを失ってでも、それを購入しないでしょうか。
ーより小さいものをより大きいものと交換することを「失う」と呼ぶとすれば、ですが。

 


Will we not take this for our seeking when in addition to this great reward, we shall have also “all these things added to us?”

この偉大な報酬に加えて、「これらすべてのものが私たちに加えられる」なら、尚更私たちはこれを求めないでしょうか。

 

 

See the tenderness of our Lord in this constant regard for our human weakness.

私たちの人間的な弱さを常に気にかけている、主の優しさをご覧ください。

 

 

And there is another tender word in the passage when restored to its right reading, which reaches down into our hearts to summon another motive from their depths, whereby we may be led to seek God’s kingdom and righteousness.

また、正しい読み方に戻すと、この箇所にはもう一つの優しい言葉があります。
それは、私たちの心の奥底から別の動機を呼び起こし、それによって私たちが神の国と義を求めるように導かれるためのものです。

 

The fact that this is the best way to obtain these very earthly blessings which we need may be a sufficient motive.

私たちが必要としている地上の祝福を得るための最善の方法であるということは、十分な動機となるでしょう。

 

 

The glory of the things sought may be a higher and more prevailing motive.

求めるものの栄光は、より高く、より優勢な動機となるかもしれません。

 

 

But there is a more powerful one still; it is love–love not to a principle but to a person.

しかし、さらに強力な動機があります。それは愛であり、それも概念的な愛ではなく、人格的な交わりとしての愛です。

 

 

And our Lord does not fail to touch on this.

そして、主はこのことに触れないわけにはいきません。

 

 

In its right reading the passage does not run:

“Seek ye first the kingdom of God and His righteousness,” but “Seek ye first His kingdom and His righteousness.”

正しい読み方をすると、この箇所は「まず神の国とその義を求めよ」ではありません。
「まず彼の国とその義を求めよ」となっているのです。

 


And the antecedent to “His” is “your heavenly Father.”

そして、「御国」の先行詞は「あなたがたの天の父」です。

 

 

Here our Lord is tugging at our hearts.

ここで主は私たちの心を引き付けています。

 

 

“For your heavenly Father knoweth that ye have need of all these things.

But seek ye first His kingdom and His–your heavenly Father’s–righteousness;

and all these things shall be added unto you.”

「あなたがたの天の父は、あなたがたがこれら全てを必要としていることをご存じです。
しかし、まず彼 − あなたがたの天の父の御国とその義とを求めなさい。
そうすれば、これらはすべてあなたがたに加えられます」 

 


Did we say the passage is a protest?

Did we say it is a command?

Do we not now see that it is rather a pleading?

この文章が抗議だと言ったことがありますか?
命令だと言ったことがありますか?
しかし今、それがむしろ懇願であることが分かりませんか?

 


O, the subtlety of love!

Love speaks here to us;

will not love respond in us?

ああ、神の愛の細やかさたるや!
愛はここで私たちに語りかけています。
その愛は私たちの中で響いていませんか?

 

Under such pleading what can we do but seek first our heavenly Father’s kingdom, our heavenly Father’s righteousness?

このような懇願のもとで、私たちはまず天の父の御国、天の父の義を求める以外に何ができるでしょうか。

 

 

And because He is our Father, we are sure both that we shall find it, and with it

–how comparitively little it seems now!

–whatever else we need, added to us.

天の父は私たちの父ですから、私たちはそれを見つけることができると確信しています。

「私たちが必要とするものは何でも、私たちに加えられるのです」
今にして思うと「私たちが必要とするもの」は、なんと小さいものでしょう!

 

 

 

  

 

 


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【Part.3】ベンジャミン・ウォーフィールド 説教『この世と来るべき世について』(Benjamin Warfield “This-and Other-Worldliness”)

 

 

 

 

 

 

In the first place we have God’s promise.

He tells us that if we will seek first His Kingdom and His righteousness He will add all these things.

まず第一に、神の約束があります。
それは、私たちがまず神の国と神の義を求めるなら、神がこれらすべてのものを加えてくださると教えています。

 


He tells us in effect that to godliness there is the promise both of this world and of the world to come.

つまり、神のみことばにはこの世と来るべき世の両方の約束があると教えているのです。

 

 

Men find it hard to believe this.

It is a standing problem of the wise of the earth and has been from Job’s day down.

人はこれを信じるのが難しい。
これは、ヨブの時代からずっと、地上の賢者たちが抱えてきた問題です。

 


But we have the promise.

しかし、私たちには約束があります。

 

 

In the next place we may add, despite the difficulties of life and the clouding of judgment, it, after all, does stand to reason.

次に、人生の困難や判断の曇りにもかかわらず、結局のところそれは道理に適っていると、付け加えて良いでしょう。

 

 

Isn’t, after all, it the best way to secure the reward, to enter into the service of the King?

報酬を得るためには、王に仕えることが一番の近道ではないでしょうか。

 

 

And God is the King of all the earth.

How shall we obtain the goods of the earth better than by hearty service of the King of the earth?

何より、神は全世界の王です。
地上の品物を手に入れるには、地上の王への心からの奉仕以外にありえないではありませんか。

 

 

True we shall obtain them as gifts and not as acquired by us.

確かに、私たちはそれらを贈り物として手に入れるのであって、自分で手に入れたものではありません。

 

 

But is not the best path for man, to seek them at His hands?

The King suffers not His faithful servants to want.

しかし人間にとって最良の道は、王の手を通してそれらを乞い願うことではないでしょうか。
王はその忠実なしもべが貪欲になることを許さないのです。

 

 

But more fundamentally still, we may add that it belongs to the very nature of things.

しかし、より根本的には、それは物事の本質に関わることだと付け加えることができます。

 

 

If we want to enjoy those earthly goods which God has placed in this world for the benefit and use of His children, the best way to secure their enjoyment is obviously not to seek to do it individually but socially.

神がその子供たちの利益と使用のためにこの世界に置いた地上の財を、もし私たちが享受したいと思うなら、その享受を確保する最善の方法は、個人的にではなく社会的に求めることだというのは明らかです。

 

 

It is a social axiom that everything that betters the condition of society as a whole increases our enjoyment of our material goods.

社会全体の状態を良くなればなるほど、私たちの物質的な楽しみも増えるというのは、この世の道理です。

 

 

A savage acquires a pot of gold.

How shall he enjoy it?

ある野蛮人が金の壺を手に入れたとします。
彼はどうやってそれを楽しむでしょう?

 


His fellow savages covet it;

and who shall secure it to him?

仲間の野蛮人もそれを欲しがります。
では誰が、彼のためにそれを守ってくれるでしょう?

 


He is liable to be waylaid at night for it.

Every bush hides an enemy; the poisoned arrow may fly upon him from any tree; his sleep is driven from him as he seeks to protect his life.

彼はそれを求める者たちから、夜に待ち伏せされる可能性があります。
どの茂みにも敵が隠れており、どの木からでも毒矢が飛んでくる可能性があるため、命を守ろうとすればおちおち寝ていられません。

 

 

Hidden by friendly darkness he may bury his treasure under some great tree in the tangled forest; and anxiously guard its neighbourhood lest he may have been watched and still be bereft of it.

In such conditions there is no enjoyment of the treasure for him; he can enjoy only the protection of it.

身を隠す暗闇しか頼ることの出来ない彼は、絡み合った森の中の大木の下に宝物を埋め、監視しつつも「奪われていないか」と、周囲を心配そうに見張っています。
このような状態では、彼は宝を楽しむことはできず、ただ守ることを楽しむことしかできません。

 


But, now, he is a wise savage and instead of giving his energies to protecting his treasure, he gives it to civilising his people.

Out of the savage tribe rise the rudiments of a state; the majesty of law emerges–protecting under its powerful aegis the person and property of its citizens.

しかし今や、彼は賢明な野蛮人であることが明らかです。
宝物を守るためにエネルギーを費やす代わりに、彼の人々を文明化するためにエネルギーを費やしています。
未開の部族から国家の初歩が生まれ、法の威厳が現れ、その強力な庇護の下で市民の個人と財産を守っています。

 


What a change!

No need of hiding the treasure now.

He can wear it displayed upon his person.

He now can enjoy at least its possession.

なんという変化でしょう。
もはや宝物を隠す必要はありません。
身につけて飾ることすらできます。 
彼は今、少なくともその所有物を楽しむことができます。

 


But a higher stage is still possible; the community may be not only civilised but Christianised; Christian principles take the place of external laws; love the place of force.

その共同体は、文明化されただけではなく、キリスト教化され、キリスト教の原則が外部の法律の代わりとなり、愛が力の代わりとなるのです。

 

 

And he, touched with the same spirit, goes about with his treasure, transmuting it into aid for the suffering and needy.

そして、同じ精神に触れた彼は、自分の宝を持ち歩き、苦しんでいる人や困っている人への援助に変えていきます。

 

 

Now he is truly enjoying it, enjoying, not only protecting it, not only possessing it but using it.

今、彼は宝を心から楽しんでおり、保護するだけでなく、所有するだけでなく、使用することを楽しんでいます。

 

 

When such a time fully comes to this world of ours–that is what we mean by the Millennium–the kingdom of God has come for which we daily pray in the prayer our Lord has taught us, when men no longer prey on one another but help and support one another.

このような時代が私たちの世界に完全に到来したとき、つまり、私たちが日々、主が教えてくださった祈りの中で祈っている神の国が到来したとき、人はもはや互いに食い物にするのではなく、互いに助け合い、支え合うようになるのです。

 

 

Meanwhile how shall we approach it?

By our Lord’s prescription–by seeking the kingdom of God and His righteousness.

では如何にして、それに近付けば良いのか。
主の処方箋によれば、それは「神の国と神の義を求めることによって」です。

 


In proportion as we seek and find this kingdom, in the measure in which we bring it into practical life in the narrow circle around us, is it not necessarily true that we shall have and enjoy the best goods of this earth?

私たちがこの王国を求め、見つけ、自分の周りの狭い範囲で実際の生活に取り入れるのに比例して、私たちはこの地上の最高の品物を手に入れ、楽しむことができるというのは、必ずしも真実ではないでしょうか。

 

 

Is there not a deep foundation in the nature of things for our Lord’s promise: “Seek ye first the kingdom of God and his righteousness; and all these things shall be added to you?”

主の約束には、物事の性質上、深い根拠があるのではないでしょうか。
「まず神の国とその義とを求めよ。そうすれば、これらのものはすべてあなたがたに加えられるであろう」

 


Is not this the most hopeful way to obtain and hold and enjoy these other things?

これが、これらのものを手に入れ、保持し、楽しむための最も希望に満ちた方法ではないでしょうか?

 

 

 

  

 

 


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【Part.2】ベンジャミン・ウォーフィールド 説教『この世と来るべき世について』(Benjamin Warfield “This-and Other-Worldliness”)

 

 

 

 

 

 

How are we to order our lives?

How are we to provide for our households–or, for our own bodily wants?

私たちはどのように生活をしていけばいいのでしょうか?
どのようにして家計を支えればよいのか、あるいは自分自身の身体的欲求を満たすのか。

 


Is it true that we can trust the eternal welfare of our souls to God and cannot trust to Him the temporal welfare of our bodies?

私たちは自分の体の一時的な福祉を神に委ねることができないのに、自分の魂の永遠の福祉を神に委ねることが本当にできるのでしょうか?

 

 

Is it true that He has provided salvation for us at the tremendous cost of the death of His Son, and will not provide food for us to eat and clothes for us to wear at the cost of the directive word that speaks and it is done?

神は、御子の死という途方もない代償を払って私たちに救いを与えてくださったのに、私たちが食べるべき食物や着るべき衣服を提供するという、一言語るだけで実現する程度のことを、本当にしてくださらないのでしょうか?

 

 

Is it true that we can stand by the bedside of our dying friend and send him forth into eternity in good confidence in God, and cannot send that same friend forth into the world with any confidence that God will keep him there?

私たちは瀕死の友人の枕元に立ち、神への十分な信頼を持って彼を永遠の御国へ送り出すことができるのに、その同じ友人を「神がそこにとどめておいて下さる」という信頼を持って、この世に送り出すことができないとでも言うのでしょうか?

 

 

O, the practical atheism of many of our earthly cares and earthly anxieties!

ああ、私たちの地上での心配事や悩みの多くにおける、「実質的な無神論」の根深さたるや!

 

 

Can we not read the lessons of the birds of heaven and the lilies of the field which our Father feeds and clothes?

天の鳥や野のユリが父に養われ、服を着せられているという教訓が、目に入りませんか?

 

 

What a rebuke these lessons are to our practical atheism, which says, in effect, that we cannot trust God for our earthly prosperity but must bid Him wait until we make good our earthly fortunes before we can afford to turn to Him.

これらの教訓は、事実上、私たちは地上の繁栄のために神を信頼することはできず、地上の富を築くまで待ってもらわなければ神に頼る余裕が生まれないという、私たちの「実質的な無神論」を、どれほど叱責するものでしょうか。

 

 

How many men do actually think that it is unreasonable to serve God at the expense of their business activity?

実際、「生業を犠牲にしてまで神に仕えるのは馬鹿げている」と考える男性は、どれほど多いでしょうか。

 

 

To give Him their first and most energetic service?

神に第一に、そして最も精力的に仕えることができますか?

 

 

How many think it would be unreasonable in God to put His service before their provision for themselves and family?

神の御許に居ながら、「自分や家族への備えよりも神への奉仕を優先するなんて馬鹿げている」と、考える人がどれほど多いでしょうか。

 

 

How many of us who have been able to “risk” ourselves, do not think that we can “risk” our families in God’s keeping?

自分自身を「危険にさらす」ことができた私たちの内、一体何人が、神に守られている自分の家族を「危険にさらす」ことができると考えているでしょうか。

 

 

How subtle the temptations!

何という微妙な誘惑でしょう。

 

 

But, here our Lord brushes them all away in the calm words,

“Seek ye first the kingdom of God and his righteousness; and all these things shall be added unto you.”

Is this not a rebuke to our practical atheism?

しかし、主は「まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてあなたがたに加えられるであろう」という穏やかな言葉で、それらを一掃されました。
これは、私たちの実質的な無神論に対する叱責ではないでしょうか。 

 


But the verse does not take the form of a rebuke; it takes the form of an appeal;

and we observe next of it, therefore, that it is an appeal to make God’s kingdom and righteousness the prime objects of our life.

しかし、この詩は叱責の形をとっておらず、訴えの形をとっています。

そのため、私たちは次に、「神の国と義」を私たちの人生の主要な対象とするように訴えていることに気付きます。

 

 

And looking closely at it we see that it is not an empty appeal but includes a promise.

そして、よく見てみると、それは空疎な訴えではなく、約束を含んでいることがわかります。

 

 

We are, primarily, to make God’s kingdom and righteousness our chief concern; but, doing so, we shall more surely secure the earthly things we need.

私たちは、主に神の国と義を最大の関心事としますが、そうすることで、私たちが必要とする地上のものをより確実に確保することができるのです。

 

 

The passage does not proceed on the presumption that we do not need these earthly things; it asserts our need of them.

この箇所は、私たちがこれら地上のものを必要としていないという前提ではなく、私たちがそれらを必要としていることを主張しています。

 

 

It does not proceed on the assumption that they are not to be in their appropriate place and order and way the objects of seeking.

また、それらが適切な場所、順序、方法で求める対象ではないという前提で進んでいるのではありません。

 

 

It merely corrects our mode of seeking them.

それは単に、私たちがそれらを求める方法を修正するだけです。

 

 

We may seek them without and apart from God or we may seek them in and of God.

私たちは、神なしで、神から離れてそれらを求めることができますし、あるいは、神の中で、神からそれらを求めることもできます。

 

 

It tells us that the former way–the atheistic way, in which we seek to provide for ourselves–is the way not to get them; the latter way in which we seek them in and from God is the way to get them.

それは、前者の方法、つまり自分自身で賄おうとする無神論的な方法は、それらが手に入らない方法であり、神の中に、そして神からそれらを求める後者の方法は、それらを確実に手に入れられる方法であることを教えています。

 

 

Who can doubt it?

これを疑う人はいないでしょう。

 

 

 

  

 

 


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【Part.1】ベンジャミン・ウォーフィールド 説教『この世と来るべき世について』(Benjamin Warfield “This-and Other-Worldliness”)

 

 

 

 

 

 

“But seek ye first his kingdom and his righteousness;

and all these things shall be added unto you.”

(Matthew 6: 33)

「しかし、まず御国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてあなたがたに加えられるであろう。」(マタイ6:33)

 

 

THIS verse is in a sense the summing up of the whole lesson of the Sermon on the Mount up to this point.

この聖句は、ある意味で、ここまでの山上の説教の教訓全体をまとめたものです。

 

 

This great discourse had opened with an enumeration of the classes to whom the advent of the kingdom would bring joy and blessing, in whom the leading characteristic is seen to be other-worldliness.

この偉大な説教は、王国の到来によって喜びと祝福を享受する階級を列挙することで始まりましたが、その階級の主な特徴は他界性であることがわかりました。

 

 

It then proceeded to enunciate the law of the kingdom, which demanded holiness before God rather than external righteousness before men.

その後、王国の律法について述べています。この律法は、人の前での外的な義ではなく、神の前での聖性を要求するものです。

 

 

At the nineteenth verse of Matthew 6 the summing up begins with a direct appeal to lay aside care for earthly things and to set the mind on heavenly things.

マタイ6章の19節では、地上のものへの関心を捨てて、天のものに心を向けるようにと直接訴えることで、まとめが始まります。

 

 

This summing up culminates and finds its fullest expression in the verse before us:

“But seek ye first the kingdom of God and his righteousness; and all these things shall be added unto you.”

このまとめは、その前の節で最高潮に達し、完全に表現されています。
「しかし、まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてあなたがたに加えられるであろう。」

 


This is the precipitate of the whole sermon;

in a few words it contrasts the two cares which press on man, the two seekings which may engage his attention.

これは、この説教の最初の部分です。
私たち人間に迫る2つの課題と、人間の関心を引く2つの探し物とを、わずかな言葉で対比させています。

 


It does not commend to us a nerveless life of Buddhist-like retirement from desire and destruction of activity.

この説教は、仏教徒のように欲望から身を引き、活動を停止するような神経質な生活を私たちに勧めているのではありません。

 

 

It presupposes in all men who are men, desire, energy, activity directed to a goal.

それは、人間として生きるすべての人において、目標に向けられている欲求、エネルギー、活動を前提としているのです。

 

 

But it discriminates activities and goals.

しかしそこでは、活動と目標を区別しています。 

 

 

We are to seek.

But not what the heathen seek–worldly ease and goods and advantages.

We are to seek heavenly things. 

私たちは求めるべきです。

と言っても、異邦人が求めるようなこの世の安楽や財や利益ではありません。

私たちは天のものを求めるべきです。

 


Hence, it bans one class of seekings and commends the other.

Our chief end is not to gain earthly things but heavenly.

それゆえ、ある種の求め方を禁止し、他の種類の求め方を賞賛しているのです。
私たちの主な目的は、地上のものを得ることではなく、天のものを得ることです。

 


Approaching the verse somewhat more closely, we observe of it–that it is a protest against practical atheism.

この節をもう少し詳しく見てみると、それが「実質的な無神論」に対する抗議であることがわかります。

 

 

There is a formal atheism of opinions and words and reasonings which declares that there is no God and seeks to sophisticate the understanding into believing that there is none.

世の中には、「神は存在しない」と宣言し、理性を高めて神が存在しないことを信じさせようとする、思想や言葉や推論による「表立った無神論」があります。

 

This the Bible describes as an open folly:

the fool has said in his heart, There is no God.

これを聖書は、「愚か」と明確に表現しています。
「愚か者は心の中で「神はいない」と言う」と。

 


But even when the lip and the mind behind the lip are true to right reason and confess that there is a God who rules the world and to whom we are responsible in our every thought and word and deed, there is often a practical atheism that lives as if there were no God.

しかし、口とその奥にある心が正しい理性に忠実であり、世界を支配する神が存在し、私たちのすべての考えや言葉や行いがその神に対して責任があると告白していても、神がいないかのように生きる、「実質的な無神論」が存在することがよくあります。

 

Formal atheism denies God; practical atheism is guilty of the possibly even more astounding sin of forgetting the God it confesses.

「表立った無神論」は元から神を否定していますが、「実質的な無神論」は日々信仰している神を忘れるという、さらに驚くべき罪を犯しています。

 

 

How many men who would not think of saying even in their hearts, There is no God, deny Him practically by ordering their lives as if He were not?

心の中でさえ「神はいない」と言おうとは思わない一方で、神がいないかのように人生を送ることによって、実質的に神を否定している人がどれほどいるでしょうか。

 

 

And even among those who yield, in their lives, a practical as well as a formal acknowledgment of God, many yet manage, practically, to deny in their lives that this God, acknowledged and served, is the Lord of all the earth.

また、生活の中で神を形式的にだけでなく実際にも認めている人の中でも、その多くの人が、認められ仕えているこの神が全地の主であることを生活の中で実際には否定しているのです。

 

 

How prone we are to limit and circumscribe the sphere in which we practically allow for God!

私たちは、実際に神を認める範囲をあまりにも制限し、制限されがちです。

 

 

We feel His presence and activity in some things but not in others;

we seek His blessing in some matters but not in others;

we look for His guidance in some affairs but not in others;

we can trust Him in some crises and with some of our hopes but not in or with others.

私たちは、あるものには神の存在と活動を感じますが、他のものには感じません。
ある事柄については神の祝福を求めますが、他の事柄については求めません。
ある事柄については神の導きを求めるが、他の事柄については求めません。
ある種の危機や希望については神を信頼できるが、他のことについては信頼できないのです。

 


This too is a practical atheism.

And it is against all such practical atheism that our passage enters its protest.

これもまた「実質的な無神論」です。
そしてこのような「実質的な無神論」に対して、この箇所は抗議しているのです。

 


It protests against men living as if they were the builders of their own houses, the architects of their own fortunes.

It protests against men reckoning in anything without God.

それは、人が自分の家を建てる者、自分の運勢を決める者であるかのように生きることに対する抗議です。
人が神なしで何かを計算することに抗議しているのです。

 

 

 

  

 

 


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悔い改めの祈り

神様、
私は自分の「弱さ」や「貧しさ」を恨み、
また他人の「強さ」や「豊かさ」を妬み、
過去を懐かしみ、未来を恐れ、
それらの故に、全てを創られたあなたに
敵対する思いを抱く者です。

 

しかし、
あなたは御子イエス•キリストの故に、
一切の栄光を捨て、私に代わり罪人の
重荷を担い、あなたの御前に立たれる
御子の執り成しの故に、
私を憐れみ、永遠に見捨てないお方です。
この事実だけが、私の慰めと希望です。


どうか私が、自分勝手な思いを懐いて
あなたを忘れ、あなたに罪を犯しても、
その度にあなたの御許へと連れ戻し、
「神、我らと共に在す」という事実に
立ち返らせてください。

アーメン。